見守ることの意味
- 2013/12/06 15:29
社団法人キリスト教保育連盟 84回夏季講習会
(2013年7月31日:ホテル松島大観荘)
講演「見守ることの意味」
姜 尚中 氏(聖学院大学)
どうも、こんなにたくさんお見えになっているとは存じませんで、せいぜい100人くらいかなと想像していて、しかも若い方ばかりで・・・私の講演会では私と同世代かもっと歳を取った人ばかりですので戸惑っています。
私は子どもについて話すだけのうん蓄がありません。どちらかというと、政治学のようなものをやってきたものですから、やや上空飛行していくような、社会を上から見るようなそんな見方が多かったと思います。しかし今日は、皆様の職業と関わるような形で、私の考えを述べさせて頂きましょう。
その前に、何よりも被災地でこのような会が催されることは、非常に大きな意味があると思います。今朝の河北新報(かほくしんぽう:仙台市に本社を持つ河北新報社が発行する日刊新聞で、一般に東北地方のブロック紙として扱われる)に、原発事故で、いわゆる避難しなければならない地域の、小中学生の8割が、いなくなった。いなくなったということは、地元から流出したということであります。従って、学校に2割しか学生がいないということが、今、データーで明らかになっているということです。このことの意味は、家族が一緒になって生まれ育った場所を離れたというよりは、恐らく家族は、ばらばらになっている可能性が非常に強いと思われます。そういう中で子どもたちが避難をしている。流出しているわけですから、人口がどこへ行ってしまったのか、そのフォローがうまくいっていないのではないかと思われます。私は3月11日から、2週間目に相馬市に入りました。2週間目でしたから、まだ新幹線は動いていませんでしたし、道路も寸断されていましたし、私たちは相馬市から南相馬、これはかなり高濃度で放射能の汚染度が高かったとおもいます。まだ2週間程度しか経っていませんでしたので、状況がまったくわからない。わからない中でも、私は60を越えていましたので、低線量被曝といっても70歳くらいで出てくるんだろうということですが、テレビ局のスタッフは40代30代でしたから、非常に怖かったと思います。こういう中で福島には物資が届かないということです。長距離輸送の人たちは、福島と聞いただけで物資を運びたくないという、非常に強いアレルギーが出ておりました。それで一度福島に入って、4駆でどうしても飯館村(いいだてむら)を通らなければなりません。飯館村のある地域を通って、相馬市に入ることができました。飯館村はご存じのとおり、あの時期は放射線濃度が高かったと思います。政府はという、これは文科省の管轄になっているもので、放射能は大体どっちの方向に動いているのかを計測するものですが、結局これを明らかにしなかった。むしろドイツや外国の方で、インターネット上にスピーディー、を見ることができたという状況でした。私は今、千葉県の江戸川の近くに住んでいます。これはまあ、葛飾柴又、フーテンの寅さんで有名のところなんですけど、そこはどういうわけかホットスポットになっています。東京大学の柏キャンパスから私の住んでいるところまでが、低線量被曝のなかでも高い濃度で、残念なことなんですけど人口が流失しているし、地価もかなり安くなって、30代40代の方が非常に戸惑っていらっしゃいますね。今日この中には、20代30代の先生が多くいらっしゃいますけど、やっぱり幼い子どもを抱えて、いったいどうなってしまうかが分らないという、全く未知のゾーンに入っていく怖さといったものがあったと思います。皆様方も被災地の方々と被災地でない方々とがお集まりになっていると思いますけど、もちろん私たちは、新聞やテレビその他で被災状況を観ました。言うまでもなく、これは、自然災害でありましたけども、同時に人災という側面もございました。そして私は2週間ほどたって相馬市から南相馬に入った時に、何よりもテレビと根本的に違っていたのは、それは一言でいうと「匂い」です。匂いはやっぱりテレビでは伝わりません。テレビというものはあくまでも、視覚情報です。視覚情報というのは人間にとってかなり大きな意味を持ちます。しかし人間の五、感の中で嗅覚ほど、原始的で尚且つ持続するものはありません。子どもたちは恐らく、小さな子どもたちは匂いを嗅いだ、その記憶というものは、ずっと残ると思います。明らかに現代の我々が持つメディアでは伝わらない、「匂い」と「重たい空気」というものはですね。たぶん私がいた下にはたくさんの人が亡くなっていたと思いますし。微生物から動物や家畜に至るまで、一切が死に絶えていましたので、辺りはとにかく静寂しかない。ただただ風が吹き、空は真っ青であるという、非常に奇妙な光景でありました。私はたまさか日曜美術館という放送をやっていましたので、この事件が起きる数。か月前、15~6世紀に活躍したブリューゲルという北方ルネッサンスの巨匠がいますが、その人が描いた江の中に「死の勝利」という絵があります。いさかいの勝利者は死である、人間の争いに勝者はいない、勝者は死である。あの時代の16世紀はペストをはじめ、様々な災害がありました。人間の平均寿命も50代はなかったかも知れません。私の好きな作家のブリューゲルという人は、お母さんが16人の子どもを産んで生き残ったのはたった二人でした。それほどまでに衛生状態が悪く、疫病や天変地異が重なったといわれます。私たちは今、日本に住んでいて長寿社会を一応は享受しているつもりでいたわけです。しかし、局地的であるにせよ、死者行方不明者20,000人という、そして広域に渡った災害が起こったわけです。
これは、阪神淡路大震災と根本的に違います。阪神淡路大震災は、活断層が揺れて局地的な都市型災害でした。都市型災害は満遍なく、山の手の芦屋地区を除けば、ほとんど多くの人々が平等に災害に遭った。人間とはおかしなもので、平等に災害に遭えば協力することができる、つまり、お互いにみんな同じように不幸を分かち合えるということなのです。しかし今回の大震災は、これは「広域的」にまたがるだけではなくて、言葉はおかしいけれども「狭域的」に、つまり狭いという意味もございます。つまり約1メートル違うだけで、お隣さんは全部死んでしまった、自分たちは生き残った。建物も全壊、こちら側は全く無傷という、そういう状況が広域的に作られた。私が実際相馬市に行きましても、自分の半壊した家からいろんなものを探してらっしゃる人が4人ほどいらっしゃいましたが、だれか遺族を探しているのかと思い声をかけましたら、そうではない。自分たちは全員生き残った、しかしお隣さんはみんな流されて死んでしまったということを言われました。つまり今回の大震災は、ただ単に東北地方に広範囲にまたがっているだけではなく、人間の心をそのように僅か1ミリの差で、やや大げさな言い方をしますが、生と死が反転するという、そういう構造が作られたということです。阪神淡路大震災では活断層が動き、そしてそこから火災になりました。従って、何度も言いますが、山の手の、六甲のかなり岩盤の堅い芦屋は全く無傷でございましたけど。神戸の平地は平等に大惨事を経験しました。しかし今回の、大震災はそうではなかった。即ち津波というものは、我々がテレビで観ているような状況ではなくて、1メートルの違いによって、天と地程の違いがあったということです。しかもそれが広範囲にわたりました、そして尚且つ原発事故が起きました。
原発事故の結果、ある口さがない政治家は、原発で誰一死んでないという暴言を吐いていますけれども、実際は原発事故があったがゆえに、レスキュー隊が入れなかった、従って餓死して亡くなるという例があったのですね。これも間接的ではありますが原発事故が導き出した悲惨な状況であります。今も台地が除染されずに、中々そこに向かえないという状況ですから、非常にやっぱり私は、ブリューゲルではないのですけども、死の勝利という言葉を考えました。勿論私は、90歳くらいになられた加島祥造という、ある文学者めいた方と対談した時に、「姜さん2万人で驚いたら駄目よ、我々は300万死んだ、しかし300万で驚いたら駄目だ、ドイツは数千万死んだ、それで驚いたら駄目だ、ロシア、旧ソビエトはもっと死んだ。20世紀は累々とした屍の上に、人間というものが今生きているんだ。」そういうことも聞きました。しかしながら、戦後生まれの私たちにとって、2万人が一挙に亡くなるということは、やはり大変なことであります。ましてや、チェリノブイリを上回るような未曾有の原発事故が起きたのですから、それが今でも私たちに重くのしかかっている。で、私は今日は、子どもの心を、その影というものが今後10年後どうなるのか、これは日本の社会にとって大きな問題だと思います。福島だけで膨大な数が、外側に流出している。そして、福島出身ということをなかなか言えない方々がきっといらっしゃいます、特に女性の方がですね。そういうような心理的な様々な抑圧を抱えた、親がいて、そしてその子どもたちが、今後どういう形で成人となって、私たちの社会とまみえるのか、これは10年後でないとわからない問題です。私自身は子ども心理、児童心理、福祉の専門家でありません。しかし、一つ言えることがあります。どういうわけか最近の様々なデーターで、児童虐待というものの件数が増えてきている。これは潜在的にあったものが、実際は実数として外に現れてきたのか。あるいは実際に実数がふえてきているのかどうか。私は今日お話ししたいことは、子どもの心理というものを、どのように大人たちというものが観察し、その内側の変化を読み取り、子どもに対してどうケアーをするのかということは、勿論重要なことです。しかし私自身は、子どもというものは、基本的に子どもを囲む大人たちが、希望に満ち愛に満ち、そして信仰に満ち、そして朗らかに笑いがあれば、そのまま放っておいても必ずやすくすくと育ってくれると思います。この児童虐待の例が我々に示している通り、じつは、本当の意味で向かい合うべきは、大人の心だと思います。大人の心が実は子どもたちに向かって行っているのだということが、この児童虐待の件数の急増によって、一応は私は裏づけられているのだと思います。難しい言葉でいえば、政治学の言葉の中に「抑圧移譲」という言葉があります。上にある人間が、その下にある人間に様々な抑圧、自分にかかる負荷をかぶせる。そして次の人はもっと下に、どんどんどんどん、下へ下へと抑圧を移譲させることによって、自分の心の平安を保つ。むしゃくしゃした時には自分より弱い人々に牙を剥く。やがてそれが、どんどんどんどん、下へ下へとむかい、最後のところに、私は子どもがいるのではないかと思います。現実的に生活保護世帯、或は雇用がままならない、皆様方も多分幼稚園や保育園、或はその他社会福祉を含めて、今の日本の中の賃金体系や皆様の様々な待遇条件、更には政府の公的支援が細っていく中で、社会福祉、少なくとも人間が生きていくうえで、生活や暮らしや福祉というものが、前と比べるとはるかに困難な状況にあるということは、一応察しが付くことです。こういう中で人々の家計や暮らしも以前のような状況では無くなってきました。あれから2年半ちょっとですけど、東京にいれば株価が1円上がったか、円が1円下がったか上がったかで大騒ぎをしております。しかしながら、私たちには主には何一つありません。私は10年以上にわたって北は北海道から、南は沖縄までタクシーに乗って生活が豊かになったという運転手さんは一人もいらっしゃいません。この10年間一般の人の生活は、プラトーというか高原状態よりももっと下がっているというのが実情にあると思われます。そういう実態が、各施設に勤めてある皆様が、家庭の事情や子どもたちの実態を観れば恐らく実感、経済も実感経済というものがありますが、そういう点で一番よくお分かりになるのではないかと思います。後で私は若干触れたいと思いますけども、幼稚園も保育園も学校も大学も同じであると思います。一言でいえば自己責任のもとに自分たちでやりくりしなければいけない。そして公的なものに頼ることができない、そして尚且つ社会に対してコンプライアンス(法令・社会規範・倫理を遵守することがこれまで以上に重視されること)というものが常に要請される。事務量は幾何級数的(前に数倍する勢いで増大・変化し続けるさま)に増えて行っている、しかしマンパワー(労働力・仕事などに投入できる人的資源)は足らない。その中で様々なやり取りをしながら、給料も場合によっては現状維持を強いられ、外側からの様々なニーズに応えていかなくてはならない。労働時間も前よりは増えていく。こういう現象が、どの社会、どの組織にも見られている。こういう中で2年半ちょっと前に、3月11日が起きました。3月11日という、未曾有の自然災害と人災が起きることによって、問題がよりクリアーに見えるようになりました。地域というものが益々疲弊し、人口が流出し、雇用が不安定になり、人々の暮らしぶりが、前よりもどんどんやせ細ってきた。こういう状況が急速に進んでいくそういう中で、地域の人間関係もパサパサとして、人々が砂粒のようになり、人々が自己防衛に走り、ぎすぎすとした関係の中で、謂わば、私たちの世の中にどうしようもない閉塞感というものが漂っております。そういうものを一挙に私たちに示してくれたのが、3月11日でありこの被災地の現実であると思います。2年半たっても東北地域は、景気がやや回復気味だという新聞報道も出ています。しかしながら避難地域の小中学生、8割はいなくなりました。そして多くの人々が否応なしに故郷を離れました。遅々として進まない2年半前の現状が今のままの地域もございます。こういう中で、子どもよりも何も大人たちの心がすさみ、そして人々が自分たちの地域や生きている現場に自分たちのプライドが持てない、こういう状況があるということですね。福島出身の詩人の和合亮一(わごう りょういち)という方と、先ほどお会いしました。彼は詩を通して、被災地の心を発信しておられる、非常に優れた現代詩の詩人でございます。そのなかで、水と空気と太陽と土とが福島のプライドであったとすると、それがズタズタと引き裂かれた。その大人たちの心の傷というものが、否応なしにそれが軽微な或は重篤な異常行為となって現れてくる。一見平和に見えてもその中に様々な傷や亀裂が走り、それを子どもたちは鋭く理解し、習得し、そして心の中に様々な影というものをもたらす、そういう光景というものが我々には見えてくるのですね。現実的に2年半経っても中々問題は先に進みません。進みませんけどもやはり、事態は否応なしに私たちに日々の日常の、謂わば、生活を強いているわけであり、いったいどうしたらいいのだろうということを、異口同音に聞くわけです。恐らく皆様方は、聖書を紐解いたり、牧師さんの言葉に耳を傾けたりするでありましょう。しかし私が、飯館村や浪江町に入った時に、異口同音に聞いたことは、「先生、世の中には神も仏もない」ということを聞きました。私はなるほど、そう行くことを言う方が、お寺の住職や神社の神主さんや、或は教会の牧師さんだったりする。事実上、棄教に等しいような言葉を吐かざるを得ない程に、非常に大変なことが起きた。しかし、なかなかそういうものがお互いに共有されておりません。私は3月11日が起きた時には福岡におりました。正確にいえば、熊本から福岡に入る途中でした。九州新幹線の開通の時が3月11日でしたから、私の故郷熊本も、九州新幹線の開通で湧いておりました。しかし3月11日が起きましたから、一挙にそれを冷え込ませる原因になった訳ですけども、今では私たちが何処にいるかによって、この3月11日の意味がかなり違ってきます。しかし、今回は恐らく皆様方は現地を見学され、少し自分の目で見られて、「百聞は一見に如かず」で、何かいろいろと得るものが有ったんではないかと思います。こういう中で、私たちは古くて新しいテーマに直面せざるを得なくなったのです。それはどういうことかというと、なぜこんなことが起きるのかということ、もっと言えば「苦難」ということでしょう、或は「苦しみ」ということだと思います。仏教の中にも、私は最近、浄土真宗に呼ばれる機会が多いので、親鸞聖人という方、これは12世紀に活躍した、これは日本仏教の開祖ですけども、やっぱりその中で煩悩というものが仏教の中で大きな大きな意味があります。キリスト教にとっても、苦難というもの、旧約聖書のヨブ記をはじめとして、やはり「受苦」苦難を受け入れることの意味を我々はどう考えたらよいのか。今日、私の講演に合わせて、旧約聖書の伝道の書が読まれると思いますけど、その中に、「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。」と書かれています。順境、順風満帆で自分たちにはほとんど憂いがない、その時には飲み食いし、人々と語ることを楽しみなさい。しかし、逆境、そうではない時には、人は考えよ。これは正しく、「謂い得て妙」だと思います。1997年日本は経済的にバブルが崩壊しました。98年、そこから10数年に渡って、毎年3万人の方々がこの社会から退場しておられます。孤独死の方も約3万人おられます。ずっと日本の社会は20年近く、この20年間で生まれた方々は、日本は高度成長しているという体験は一切ございません。言ってみれば、デフレ経済というものが常態化しているわけでございます。私のような世代は、古き良き時代を回顧し、その時代に戻ろうとします。しかし、もうそのような時代は二度と廻ってこないでしょう。私たちの暮らしは、デフレであり成長が止まっているにしても、如何にしてその中で私たちは平穏で安心で、幸せな生活を送れるかということを考えていかなければならなかったにも拘らず、3月11日が起きても、依然として私たちは、謂わばビタミン剤や精力剤を飲んで、経済が成長しなければ社会がダメになる。従って原発も必要であるし、これを輸出しなければならない、公共事業も必要であるし、沢山の土木工事をしなければならない。夢をもう一度という、依然として性懲りもなく同じことを繰り返しております。本来3月11日は、戦後日本が直面した第二の敗北だったと思います。昭和20年8月15日、日本は戦争に負けました。それでは、2年半前に起きた3月11日は我々に何を教えたのでしょうか。それは、日本は自然に負けたということです。戦争に負けて自然に負けて、人間はそこで変わらなければならなかった。300万の死者の犠牲の上にアジアで数千万の人が亡くなった以上は、日本を平和にしようと、正しくキリスト教界も新しく生まれ変わろうと、仏教界も生まれ変わろうと、宗教界が生まれ変わって新しい日本を造ろう。日本は世界がうらやむ経済大国になりました。しかしその果てに、3月11日が起きました。ここでは、私たちがいかに自然を冒涜し、そして私たちがいかに傲慢になり、科学技術の万能の名のもとに、自然をいくらでも造り替えられるという、その驕慢(おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること)というものが打ち砕かれました。現代科学の粋を集めたものが、私たちにとって幸福をもたらすどころか、パンドラの箱が開いて、苦難がばらまかれました。ここで私たちは変わらなければならない、さすがに昭和20年8月15日で人は変わろうとしました。国破れて山河在り、国はなくなったけれども山河はある。山河があれば、そこで人々は自分の故郷に帰り、そこから新しい日本を造ろうとしました。でも、3月15日はどうだったのでしょうか。私は国あって山河なし、と言えるかもしれません。実際に福島では山河が失われたといっていいと思います。しかし国はあります、国家は益々肥大しています。強い国家になりました、しかし、人間の生活にとって最も根本的な地域社会を支える山河、自然、環境、こういうものが見事に失われました。その結果として、子どもたちの心の中に住まう、最も自然な感情というものも、失われて行かざるを得なかったはずです。私が相馬から南相馬に入った時、農業高校の学生たちと一日を暮しました。農家が、そして土がもう二度と使えないなかで、農業高校で学ばなければならない子どもたちは、いったい何を理想として生きていくことができるのでしょうか。自分たちの未来は完全に閉ざされている、その閉ざされているものに向けて学ばなければならないということは、それは人生における最大の不条理ですね。農業がダメであるということは子どもたちはよくわかっています、しかし農業高校で学ばなければならない子どもたち、これは正しく今の日本社会における逆説を言い表しているのだと思います。本来であるならば、私は3月11日が第二の敗戦として、我々はそこに明記し地域が犠牲にならない社会、日本をもっと多極分散型の社会にし、そして強大なプロジェクトや、巨大な原発などに依存しないような地域社会と、そこで子どもの安心安全が保たれるような、そういうものに変わっていく大きなきっかけにするべきでした。残念ながらそうなってはいません。大きな流れはそれと逆方向にあるといっても言い過ぎではないと思います。そういう中で、私たち一人一人は微力です。小さな力しか持っていません。私たちは大きな政治を変えられるだけの力を、今のところは持っていません。しかし私たちには掛けがえのない子どもたちがいます。その子どもたちが、10年後、我々がここで種を蒔けば、必ずその思いというものは伝わっていくはずであります。その意味において、皆様方は最も重要な仕事をされているといっても過言ではないと思います。こういう中で、なかなか一人一人が、未来に対して朗らかな希望を持てないという状況がたくさんあり、そういう中で苦悩されている方も多いのではないかと思います。しかし、どんな時代どんな社会に生きていても「笑い」がある。子どもたちの笑いというものは、それだけで大人たちを朗らかにしてくれます。どんなに大人たちが、悲しみ沈んでいても、子どもたちの笑いひとつあることで、我々はそれで癒され元気づけられることがあるということです。伝道の書第4章13節にこういう言葉があります。「貧しくて賢い童は、老いて愚かで、もはや諫めを入れることを知らない王に勝っている。」これは、今の政治家に聞かせてあげたい言葉です。「貧しくて賢い童は、老獪で愚かで、もはや諫めを知らない政治家たちに勝っている。」私はそう言いたいのであります。聖書においては明らかに、童の持っている賢さが、どんな時代の王よりもはるかに優れたものであるということを、我々に知恵として教えております。一人の子どもの知恵と笑いというものは、百の政治家以上に人の心の中に、私たちに、勇気というのもを与えてくれることがきっとあるはずであります。同時にその子どもたちは非常に脆く脆弱でもあります。ましてや、5歳や6歳や4歳の子どもであれば、朗らかと同時に非常に脆弱であるということです。何よりも大人たちの顔を一番よく気にしている筈です。子どもたちがセンスティヴ(敏感)であればあるほど、先生方や家庭の親や、周囲の大人たちがどのような顔をし、どのような発言をし、どのような人間関係を結んでいるかということを、いち早く最も敏感に、鋭敏に感じ取れるアンテナを持っているのは、子どもだと思います。私も高校生でしたが、高校一年生の農業高校の体育館で、その学生たちに声をかけました。とても朗らかな子どもたちで、一緒にダジャレを言っていました、しかし両親は亡くなっていました。その時私は絶句いたしました。子どもたちがどんなに、私たちに笑いの声を、そしてその時に本当にスマイリングで私たちを和ませることがあっても、その裏に深い深い傷を負っている場合もございます。私たちはなかなかそれをキャッチすることはできません。それは、今の私たちの反映として、この社会が非常に震災を、益々ぎすぎすとし、そして、何かはばかるようにして、声をあげることが難しくなってきているという状況もありますし、経済は良くなったといいながらも、 私たちには実感がなく、生活保護や社会保障が、税と一体となって削られていく。今後幼稚園や、保育園の運営にも大きな様々な影というものが投じられているのではないかと思います。こういう中で、私たちは現場の中で生きる人間としてどうしたら良いのか、これが日々問われているのではないかと思います。この20年で私も大学にいてわかることは、理念や信仰ではなくて、日々の事務的な忙しさによって、人間関係がそがれ、自分が疲れていくということがよくわかります。この20年で、具体的にいえば、大学では法人化が進みました。今般、東京大学でも研究の改ざんや資金の私的流用がございました。大学は法人化され、外部資金を持ち、様々な民営を強いられ自活して研究をしていかなければならない。コンプライアンスが、どっかりとのしかかっていく。そして人間関係の中で、ミスを犯した人を、人々が何とか支えていくというよりは、人がミスを犯すとそれがものすごく重大なこととして見られ、そして、その場の人間関係が益々ぎすぎすとなり、そして、上にいる人と舌にいる人との関もまた、これまで以上にフレンドリーではなくなっていっているという、これはどの社会でも進んで行っている現象だと思います。勿論、皆様の中には職場の環境に恵まれ、そういうものとは一切関係のない朗らかな職場も、きっとおありになると思います。しかし現実的には、そのような幾何級数的な仕事量の拡大というもの、こういうものが、人々の暮らしや労働環境、そして人々の考えている様々な自分なりの思いや、理念や信仰というものを、少しずつ少しずつ削り落としおとすように、段々と段々と当初の情熱や熱情というものが無くなり、やがて、様々な外部からのニーズに応えていくだけで、精いっぱいという形で、自分の毎日が過ぎて一定いるという方々も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。大学もまたそうであります。この日本の社会の中で、でいろんなところにはびこっている、そのような忙しさに紛れた中で、私たちが子どもと、どう向きあっていくのかということが、なかなか覚醒的に、それをもう一度自分の原初に戻って考えてみる。始まりに戻って考えていくという機会が、かなり削がれて行っているのではないかと、私自身は思います。とりわけ私にとって残念で仕方がないもは、3月11日で日本の社会が大きく変わるのではなくて、旧態依然としたものに復帰しようとしているということでございます。このことが私たちに、かさぶたのように大きくなっていっています。子どもを、私たちの社会を担う、その未来の大いなる可能性。アマルティア・セン(インドの経済学者)という人は、子どもが持っている潜在的な可能性、これをケーパビリティー 【capability: 能力・才能・可能性・将来性・人としての器の大きさ】として、その潜在的な可能性は教育を通じて開花する。従って、貧困というものはその可能性を奪う、従って、貧困は必ず子どもにダイレクトに大きな影をもたらすことになると言っています。いま日本の社会で、平均所得200万以下が1割以上、日本全体の平均所得が549万円だったと思います。東京大学に入るためには、親の所得は1000万以上だと言われております。恐らく1000万以上の所得層は10%にも満たないと思います。間違えもなく上と下の差がどんどんどんどん広がり、真ん中の中間層がどんどんどんどん、やせ細っていくという状況があると思いますし、それが結果的には、皆様の仕事場の中に様々な影を落としていると思われます。私は熊本に生まれました。天草でよく泳いでおりました。天草には隠れキリシタンの伝統があります。島原から天草にかけて、江戸幕藩体制の中で隠れキリシタンとして細々と生きてきた人々、一言でいえば半農半漁の貧しいところでした。しかし日本のプロテスタントとしての歴史というものは、言ってみれば戦後、見ていけば、その中間層にかなり大きな、言わば信者というものを獲得してきたのではないかと思います。日本の社会の最もの強みは、この中間層でございました。 極端に走らない、上と下の間をつなぐ層が分厚いということが、恐らくは、幼稚園や保育園にとっても、大きな大きな経営基盤にとって、また、親御さんと対応する先生方にとっても安定した環境を成していたと思います。しかし残念ながら所得水準を見る限り、非正規雇用はかなりの形で増えておりますし、また所得水準は、今若干物価が上がってきておりますけども、一向に所得が上がらない、そういう方々にとって、共稼ぎというものが常態化し、子どもたちを預ける場所というものが、依然として、なかなか社会的に整備されていかない中、既存の保育園や幼稚園というものに様々な負荷が、恐らくかかっているのではないかと思われます。少子高齢化が、なぜ進むのか。それも一つ大きな原因ですし、またここに私が見渡す限り大多数の方々が女性です。おそらくこの会場の九割は女性が占めていると思います。しかし残念なことに、単身高齢の女性が最も貧困に陥っております。貧困という概念は日本には有りません。実際には、公的に規定しなければならないにも拘らず、政府においては貧困の公的規制はありません。せいぜい生活保護、その給付額を基準にして貧困ということを決めているほどですけども、貧困の相対的概念があったとして、明らかに女性が4倍以上に同じ男性より貧困に陥っている。そういう職場そういう社会の中で、皆様方が一緒になって、幼稚園や保育園で働いている先生方は、結婚をし、子どもを産み共稼ぎの中で、職場で、いろいろなことをやっていかざるを得ないという中で、女性にとっては男性以上にハンディーのある状況が、依然として改善されていないということでしょう。こういう風に考えていきますと、私はやや悲観的なことを申し上げましたけれども、私はそれでいいと思います。それでいいという意味は、そう簡単にバラ色の未来はないであろう、だからこそ、ここで頑張る。私はいろいろな本の中で、「二度生まれ」ということを言いました。twice born、生まれ変わろう。昭和20年8月15日は正しく、それを国民的規模でやりました。3月11日は、本来はもう一回のtwice bornが無ければならない大きな大きな曲がり角であったと思います。私たちは子どもたちと日々接しながら、自分たちが生まれ変わることによって、この世界に対する見方も変わってくる。小学校の5年生が、この東北の地で、もう一度津波が起きた時にはどこに駈け込まなければならないのかということを、真剣に考えなければならない時代とは、数十年前は無かったと思います。子どもたちが、自分の身を守るためにどうしなければならないのかということを、真剣に一人ひとりが考え、自分が助かるためにこそ、友達を助けなければいけないということを、真剣になって小学校5年生が、なるほど、安心安全が空気のように自明のものであった社会に比べ、過酷であるかもしれません。しかしそれを通じて、子どもたちも早く大人になる、早く自立した人間になるということです。戦後の日本の社会は、一言でいえば、子どもを保護の対象にしてだけ見てきました。守るべき客体、そこには子ども本来の、個性や自由が、そして大人と通じるsomethingがあるということを、ほとんど度外視し大人がいくらでも可塑的(かそてき:思うように物の形をつくれること)に、粘土細工のように組み立てられる存在として考えてきました。しかし今、3月11日という経験があり、今度、南海トラフを始めとして、様々な激震期に多分日本は入っていると思われます。東京大学の地震予知の専門家に聞いてみても、地震の予知は不可能です。現代科学をもって、地震を予知することはできません。明日起きるかもしれない、10年後起きるかもしれない、それは誰にもわかりません。しかし確実に数十年以内に、この東日本大震災を上回る震災が起きるであろうという蓋然性(がいぜんせい:ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い・確からしさ・これを数量化したものが確率)は、非常に高いはずです。20世紀になってマグニチュード9以上の大きな地震の、その10%が日本で起きました。37万平方キロメートルのこの日本列島は、この地球上の表面積に比べれば、恐らく零コンマ何パーセントも無いでしょう。しかしマグニチュード9以上がこの日本で10パーセントも起きているのです。私は、原理主義的な原発反対者ではありません。原発反対ということを、真正面から言えるだけのうん蓄も、過去の自分の経緯を考えれば、なかなかそれを表立って言えるような立ち場の人間ではないと思います。しかし、マグニチュード9以上のものが20世において、10%も集中していたこの列島に、原発を50数機も置くということは、これはやはりいくらなんでも無謀なことと思います。こういうことが行われてきたということ、そして今後、こういう日本の、いわば自然災害の激動期に、我々は入っているということを織り込んで、そして、子どもたちの命、自分の命を守っていかなければなりません。それは、言ってみれば誰かに自分の人生をお預けにする、お預け民主主義が終わるということです。お偉い人や、東京にいる中央にいる人々に全部にお預け、誰か上にいる人にお預けにすれば、安心安全が保たれるそういう時代が終わったということであり、子どもにも、私はある程度の年齢に達すれば、真実を話すべきだと思います。子どもには、包み隠さず真実を話し、そして大人たちの悩みも、場合によっては、それを受け止めてくれる子どもたちがいれば、それを共に分かち合う。夏目漱石という人は、自分が生徒に教えるときに、生徒だけが先生に対して全人格をさらすことは間違っている。教える側こそ、生徒に対して全人格をさらすべきだというふうに、どこかで述べておりました。今こういう時代の中で、10年後私たちの生活は本当に安泰なのか、誰もわからなくなりました。不安というものがどこかにこびりついている筈です。しかし私たちは日々生きていかなければならない。笑い声を子どもたちは忘れることはありません。私は今回のことでもう一度「方丈記」を読み直してみました。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」と書いてあります。伝道の書の中でも「一切は空である」私たちの行いは全て風をつかむごとく空である、空しいと書かれてあります。じゃあ、空しいから何もしないのか、そうではない。空しいが故に、今を生きている私たちの、この生というものを大切にしようということが、同時に聖書も、またある意味において方丈記のメッセージも、それを表している筈です。私たちは間違いなく戦後、私のような世代は、この3月11日は大きな大きな歴史の断層として、巨大な楔(くさび)のように打ち込まれました。これを通じて私たちの社会が常ならない社会だということも学びました。では、その中で私たちは狼狽える、全てを空しと思い、そしていろんなことを悲観的に見ていればそれで済むのかといえば、決してそうではありません。何故ならば、3月11日があっても子どもは生まれました。3月11に生まれた子どもがいる筈です。和合亮一君の詩の中でも、最後、福島でも3月11日、大地震が起きた時に子どもが生まれたでしょう。このようにして、人間というものは確実に伝わっていく力を持っております。皆様方は明らかに、その幼稚園や保育園を通じて、あるものをきっと伝えていく筈です。その伝わったものはきっと10年後に開花するかもしれません。私は小学校の先生、保育園や幼稚園で働いてある先生方に、本当にリップサービスではなく、心から尊敬の念を持っております。何故ならば、その子どもたちに教えた、先生方の教えというものは、10年後20年後にはっきりと花となって開くからです。皆様方の仕事は、ある意味において健徳ではなくて陽徳(あらわに人に知られる徳行)ではなくて陰徳(人に知られないようにひそかにする善行・隠れた良い行い)だと思います。教育というものは促成栽培で結果が出てくるものではありません。受験産業であれば未だしも、真に人に教えていくということは、10年後その結果が出てくるかもしれません。私も大学で教えるようになってから約30年近く、何が一番嬉しいかといえば、10年20年経ってかつての教え子から、一つの葉書が来ることです。恐らく皆様方もそうではないかと思います。そういう陰徳の仕事というものを、社会的にもっともっと、私は高く評価し、皆様方の職場の環境や、或は、給与の条件やいろんなものが整っていく社会に、微力ながら私も前に向かって進みたいと思いますけども、現状はなかなか厳しい中で、しかし、それでも新しい生命は生まれ、生は繋がっていっているということなのです。私たちの生は繋がっていますし、だからこそ私たちは、聖書の教えというものを熱く熱く受け止めているのではないかと思います。時間がないので、最後に皆様方に言いたいこと、この伝道の書の中で、こう述べられています。「時と災難は全ての人に臨む、人はその時を知らない。魚が災いの網にかかり、鳥が罠にかかるように、人の子らも災いの時が突然彼らに臨むとき、それにかかるのである。」3月11日は一回限りのものではありません。伝道の書でいわれる通り、過去にあったものが、また再び起こる。今新しく起きていることは、過去にやったものである。個の仙台の地に今から約1000年前に貞観地震(じょうがんじしん)が起きておりました。貞観地震が起き、仙台まで津波が押し寄せていたという説もございます。地層を調べてみれば1000年前、日本には大地震が起きていた。いま私たちは若しかしたら、1000年に一度のそういう激震期を生きているのかもしれません。それは私には良く判りません。しかし災いがいつ起きるか、それが判らない。私たちは3月11日で、しっかり教わったものを教訓として学び、何よりも大切なこと、それはやはり、口幅ったい言葉ですけども、私は愛に勝るものはないと思います。私自身は1987年、先程ご紹介があった通り上尾市の上尾合同教会で洗礼を受けました。その時、牧師さんから‐その牧師さんは今はもう亡くなられましたけども‐「信仰と希望と愛と」恐らくコリント人への手紙を、この中に(私の胸の中に)記されたと思います。結局最後は「愛」ということ、「愛」ということはどういうことだ・・・子どもへの愛、子どもからの愛、そして私たち一人一人が、その子どもと主に歩んでいくときに、人を支え支えられるということ…これに尽きると思います。苦難や苦しみがあったときに、一人孤独である限りは、二重の意味で苦しみを受けなければいけないと思います。私たちが一番辛いこと、それは「孤独」であるということです。孤独であることがいかに辛いのか、孤独であることによって「路傍の石」以下に見なされる人間の辛さというものは、我々の想像を絶します。我々は孤独ではない、苦しみがあっても悲しみがあっても子どもたちと、そして職場にいる人々と、そして家族の中で地域社会の中で、それを共有し合えるということは、私たちにとって最も最も大切なことと思います。私は、この愛という言葉、もっと固い言葉でいえば「社会」と言っていいと思います。社会、ひっくり返せば「会社」です。社会という言葉、society、この言葉を日本に普及させたのは多分、福沢諭吉だと思います。福沢諭吉の「文明論之概略」中で、「社会即ちソシエテ也」と書いてあります。「社」これは社(やしろ)でしょ?「会」これは農民の集まりの「會」だということです。そこには、人は一人では生きられない、人と人とが支え合わなければ生きられない。恐らくそれを、イエス様は「愛」という形であらわしたと思いますし、今グローバリゼーション(国家などの境界を越えて広がり一体化していくこと)が進む中で、最も凹んでいるのは「社会」です。地域社会が凹み、コミュニティーがばらばらになり、人間関係が荒み、そして一握りの人が巨大な富を独占し、多くの人々が貧困や失業状態に陥り、こういうことが世界中に起きております。この世界に中で暮らす人と人を支え合い、世の中を復権させる力、それが「社会」でありましょう。幼稚園や保育園というものは、子どもたちをそのもっとも重要なパートナーとして、揺籃の地として、そこで見守る、それが皆様の仕事ではないかと重います。社会の揺籃の場所、それが保育園であり幼稚園であると思います。大人が愛に満ち希望にあふれ、そして、信仰を厚くしているならば、子どもたちは放っておいてもすくすくと育つ筈です。私はルソー主義者ではありませんけれども、人間の本性の中には、罪というものが有るにせよ、子どもたちは本来innocentな汚れのない無垢なものだと思います。無垢なものは、大人たちがそこに翳りをつけない限りは、すくすくと育っていく筈です。私が大好きな坂口安吾という作家は、「親はなくても子は育つ・・・嘘でしょ・・・親はあっても子は育つ」と言っていますが、「親はあっても子は育つ」とは、私は真理だと思います。子どもにはそれだけの生命力がある、従って私たちはそのための必要な条件を整え、そして、大人たちこそがこの困難な時代を生き抜いていくときに、最も必要なことを忘れないということをですね、皆様に申しあげておきたいと思います。世界は、残念ながらよりよい社会に向かっているとは言い難いと思います。世界中で同じようなことが行われています。しかし、社会が復権するということは、地域社会やコミュニティーや人間と人間の絆というものが、これまで以上に、様々に強くなっていくということですけども、皆さんどうでしょうか?二年半前、絆の大合唱でした。日本よがんばれ!東北へ行こう!・・・まるで蜃気楼のように無くなりました。いま私たちが経済誌を読むと、株価の乱高下と円がどれだけ上がったか下がったかで、大騒ぎをしています。あの「絆」は何処に行ったのでしょう。私が被災地に行っても、異口同音に聞いたのは、「忘れないで下さい」という言葉でした。「所詮、先生、我々は忘れられていく」、欺隠(きいん:都合が悪いことを欺き隠すこと)である、我々は捨てられていくということを見事に言い当てた人もいました。考えてみれば、日本の近代現代は、多くの国々がそうである以上に、欺隠によって成り立って来ました。九州では、石炭へと、石炭から石油へとエネルギーの大転換が行われるときに、そこで職を失った人は、遠くは東ドイツにまで石炭労働者として、労働力を排出されて行きました。水俣でも同じようなことが起きました。いろいろなところで「欺隠」というものが少数者に犠牲を強いてきました。そして子どもたちが、最大の犠牲者にされてきました。私は3月11日を通じて、そのような「欺隠」のようなあり方を捨てようと、最低限多くの人々を包括できる社会にしていこう。そういう人たちを排除し、見捨て、欺隠へともたらすのではなくて。どれだけ多くの人々が、南米や中南米に移民となって出かけて行ったでしょうか。日本は労働力の輸出国でもあった訳です。そういう現実が連綿としてありましたし、3月11日もまた,悲しいかなそういう歴史を繰り返している。こういう中で、本当に様々なしわ寄せが、皆様の職場の中にきっともう、影を投じているのではないかと、私自身は危惧しておりますが。にも拘らず、皆様方の仕事は、本当に本当に10年後の日本の社会を考えたときに、最も重要な仕事だと思います。東京大学でノーベル賞級の開発をやること以上に重要な、何故ならば、社会を支えるのは人間ですし、その人間の揺籃の地が、幼稚園であり保育園であるからです。どうぞ皆さん、なかなか展望はすぐには開けないかもしれませけれども、可能ならば、10年後私は72歳になりますけれど、まあ若しよろしければ、また呼んでください。どうもご清聴ありがとうございました。
報告者:キリスト教保育連盟九州部会
部会長 田中秀一(愛の園保育園)
第84回夏季講習会に、部会を代表して受講させていただきました。東北部会の皆様のご奉仕によって、和やかで素晴らしい研修会となりました。プログラムは全て充実していましたが、中でも圧巻だったのは研修最終日に行われた、著名な姜尚中先生の講演でした。お恥ずかしいことに、この歳になっても「涙が出るほどの感激をするもなのだ」と思いました。特にドラマチックなエピソードの紹介で、受講者に涙を誘ったわけではなく、本当に祈りつつこの国の行く末を憂い心配しておられました。語る言葉が全て、多くの時間を傾けた思索から生みだされたものであり、表面的な取り繕いも、受講者に対するリップサービスもありません。ただ、温厚にして礼を失することなく、揺るぎない信念の言葉をもって、我々に対して、職責を後押ししてくださる姿勢に感動しました。その後散開し、単独で釜石市、陸前高田市等の被災地域を訪れました。まだまだ、復興という言葉には程遠い状況で、その様子は機会を得てご報告したいと思います。この震災の記憶を決して風化させてはならないと心に誓って帰って参りました。